記憶の中のわたしはいつも、本を開いている。
リカちゃん人形は近所の子どもに羨ましがられるぐらい持っていた記憶がある。
おそらくオモチャもそれなりに買い与えられていたのだろう。
公園で遊んだ記憶はほとんどない。
西陽のあたる団地の一部屋。
子どもが窓からと落ちないようにとつけられた鉄の柵。
色の褪せたオレンジ色の絨毯。
そしてそこに座り込んで絵本を開く私。
わたしの絵本は、両親の本棚には置かれず、ミシンの棚に入っていた。
両開きのその扉をあけると上のほうにはミシンがあった。
このミシンを上部に反転させるとミシン台になり、普段ミシンを使わない場合は、下向きにして扉の内側におさめ、上の台を単なる作業台として使っていたのだろう。
けれども、わたしはこのミシンがミシンとして動いているのを見た記憶がない。
おそらく、使わないから私の本棚にされていたのだろう。
両親はどちらも子供の教育に熱心というタイプではなかった。
大人になって自分が母親になってわかったことは、私の母は、絵本・児童書を選ぶセンスがとてもよかったということだ。
ちゃちな作りの安価な雑誌と本の中間のような、私が呼ぶところの「絵本もどき」はほとんど与えられず、何年も読み継がれている名作の絵本が多く、それらはしっかりとした装丁がされていた。
わたしはこういう絵本に囲まれて育てられた。とてもしあわせなことだと思う。
まともな絵本というのは、安手な子供だましの本に比較すると倍ではきかない値段がするということが自分が母親になってわかった。
読書家の母らしい、こだわりだ。
そのおかげか(?)、私は今でも本代を節約することができず、インターネットの時代でIT業界の仕事に携わる人間としては珍しがられるほど紙の書籍にこだわりがある。
物語や絵本の世界に入り込み、静かに誰にも邪魔されずに過ごすのが好きな子どもだった。
子どもは元気に外に出て‥というタイプの母親でなくて本当によかったと思うが、父親は子どもは元気に外に出て‥信仰がある人だった。
幸か不幸か私は子供の頃から身体が弱いのと、妹が非常に活発で身体も丈夫、本は嫌い、外遊び大好きという真反対のタイプだったので、アウトドア好きの父親はもっぱら妹にその熱意を振り向けていた。
現実の友だちや家族よりも、物語や絵本に暮らす住人をこよなく慕っていたわたしだが、本を綴じればまったく想像や空想の世界に入ることはなかった。
そういう意味では、私は赤毛のアンではなくて、親友のダイアナ・バーリー型でしごく現実的な少女だった。
本を読むためか、弁が立つタイプで、そのせいか頭の回転の早い子どものように思われていたが、苦手なことが非常に多い子どもでもあった。
まず、運動がまったくもって苦手。
気温の変化に弱いので、そもそも外に出たがらず家に引きこもって本ばかり読んでいるのも大きな原因だったろう。
苦手だと思うとますます外で遊ぶことや運動することを避けることになり、ますますできなくなるという悪循環を引き起こす。
絵を描いたり、自分の手を使って工作をしたり、手芸をしたりすることも非常に不器用だった。
「好きな絵を描いてください」と先生に言われるのは、ため息がつくほどいやなことだった。
描きたいものなど1つも浮かばない。
子どものときによく描いていたのが、三角屋根の家の絵だ。
好きで描いていたわけではない。それ以外何一つ思いつかなかったのだ。
おそらく、この絵もだれかの描いたものを真似て描いて、そのままワンパターンで描いていたのだと思う。
東京の下町にある団地に育った私に、こんな家を見た記憶はまったくない。
運動も図画工作も家庭科も、妹は得意だった。
本人もエネルギー余りあるというタイプだったし、作品にも独特の個性とエネルギーがあった。
両親はよく褒めていて、そのことにモヤモヤする気持ちがなかったとはいえないが、あまりに力量に差があった。
実力に差がありすぎると、人間というのはさほど嫉妬心を起こさないもので、むしろ力量が近く、少し自分よりも上回っているという人に猛烈な嫉妬心を感じるというのを河合隼雄先生もどこかに書いておられた。
小学校というのは残酷な場所だと思う。
子供のころには持っていたであろう万能感を根こそぎ奪われる上に、さらにそこに序列がつけられる。
そして万能感のかわりに手に入れるのは、劣等感と苦手意識だ。
勉強以外の分野の劣等感や苦手意識から抜けだせたのは、わたしの場合、40代を過ぎてからだ。
気がついたら、人から評価されることや序列をつけられることがあまり気にならなくなってきた。
以前の自分だったらやってみないことをしたり、すごく苦手だったものが努力したら、人並みにできるようになることに喜びを感じるようになった。
そうなってみると、ひょっとして序列をつけていたのは、他ならぬ私自身だったのだろうという気もする。
大人になればわかるけれど、他人というのは自分が思うほど自分のことなど気にしていない。
みんな忙しいのだ。
今のわたしは、子どものころと同じように自分の心のなかに自分だけの場所をいつの間にか、持っていた。
それは西陽のあたる部屋で、ミシンの棚につまったお気に入りの本たちがあり、向こうの部屋では家族たちの声がするが、わたしの周りはいつも静かで守られているという場所にとても似ている気がする。
そしてそこには、上手い下手を気にせず、ただひたすら何かに没頭している少しツンとした表情の少女の姿がいるのだ。
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