路上生活経験者もしくは現在も路上生活者をメンバーとして構成されたダンスグループ「新人Hソケリッサ!」を主人公にしたドキュメンタリー映画「ダンシングホームレス」を観てきました。
東京という街
今年の9月中旬にこの映画の場面にもちょくちょく登場する最寄り駅がJR錦糸町駅の暮らしから、逗子に引っ越してきました。
それまでは、49年ひたすら下町エリアで暮らしていました。
路上生活者のリアルな日々を見せる場面では、新宿、渋谷、新橋などのシーンが多く、「ああ、ここはあそこの道だ」「そこの角を曲がると…の店があるな」などと細かくあれこれ思い出しました、
しみじみ自分は東京の人間なんだな‥と思いました。
逗子の暮らしは自然が多いし、静かだし、個人店も多くて、とても楽しく暮らしている一方で、どうにも自分の居場所と思えない。
下町の暮らしは、うるさいし、汚いし、もう場所によっては「民度低過ぎ!」と言いたくなるところもたくさんあって、でもそのゴチャゴチャのぐちゃぐちゃがホームなんだなぁと。
ホームと感じる場所というのは好きな場所とはどうやらまた別なようです。
そしてもう一つ感じたのが、東京というのは貧富の差が激しい場所だけれど、一方で貧富の差をあまり感じない場所でもあるのだな‥ということ。
どこの国もそうですが、スラムというのは基本的に都心にあるもの、都心はとにかくいろんな生活レベルに人がいる一方で、人が多過ぎて、お互いをあまり見ていない、だから隠れて暮らすことができる場所でもあるのだと、引っ越してみてよくわかりました。
そういう意味では、逆転のチャンスが多いのも都会なのかもしれません。
なんとなく地方ってお互いの住んでいる場所や暮らしぶりが垣間見えて、階層が固定化しちゃうのではないか?と最近思い始めました。
この映画を観ていてもそうですが、ここ数年の東京では駅ですれちがって、あ、ホームレスの人だとパッと見てわかる人というのは本当に少なくなりました。
私が子供の頃には、ちょくちょく見かけた明らかにホームレスの人というのは、見かけなくなりました
そうなればなるほど、支援の手も届きにくくなるし、それが良いことなのか、そうでないのかは見る立場によって判断は異なると思いますが‥。
自分を表現するということ
ダンスグループ「新人Hソケリッサ!」を主宰しているのは、もともとCMやMVの振り付けを行っていたという振付師のアオキ裕キ氏。
魅せるダンスは、どんどん窮屈になり自分が出せなくなる‥ということで、個々のメンバーの表現方法をとても大切にしていることが伝わってきます。
ただ一方で、「表現」というのは誰かに伝えたい、理解されたいから表現するという側面もあり、相手の理解を得るためには「わかりやすさ」「伝わりやすさ」みたいなことも必要になってくる。
だからプロのダンサーたちの踊りは個性よりも、決めのポーズやカッコよさに縛られていく、そうなると「何が表現したかったのだっけ?」と本末転倒なことに陥ってしまう。
映画の中で、イベントに出たソケリッサのダンスが全く伝わらなかったシーンがあり、それは伝わらないだろうな‥と思う一方で、じゃぁ伝わりやすい、わかりやすい振り付けをして踊ったり、路上生活者という個々のライフヒストリーみたいなものを表に出して、売り物にしていくのもやっぱり違うと考えるアオキ氏の葛藤というかジレンマみたいなものは、芸術分野を志す人の誰もが抱えるものなのだろうなと非常に共感しました。
たまたま私が通っている美大で、同級生たちが卒業制作を前にして、「創りたいもの」と「それの伝え方」に悩んでいるのをこのところよく聞いているからというのもあるかもしれません。
(私自身はそもそも創りたいものも伝えたいものも、芸術方面になく、そこが最も課題だったりするのですが‥。
そんな人が美大に行くなよ‥って話なんですが‥。
まあ、そんな事情があるので創りたいもの探しのために最近はこうやって映画な
ども積極的に観ようかとおもっていたりするのです)
このあたりの話は、以下のハフィントンポストのインタビューがわかりやすいです。
ダンスは自由になる手段。振付師・アオキ裕キはなぜ路上生活者と踊ることを選んだのか
きっかけはニューヨーク留学中に遭遇した「9.11」。路上生活者たちのダンスグループの活動を追いかけたドキュメンタリー映画『ダンシングホームレス』、振付師・アオキ裕キさんに話を聞いた。
選ぶ・生きる
最後の彼らのダンスシーンを観ながらいろいろな思いがわいてきました。
路上生活者になった経緯は、メンバーそれぞれで。
選択を誤ったと感じている人もいるだろうし、それしか選べなかったという人もいるだろうし、気がついたらそうなっていた人もいるだろう。
そもそもそういう自分は本当に自分で何かを選択して生きてきたのかな?ということ。
私に限らず、人は選んでいるつもりで、選ばされていることが、もしかするとほとんどなのかもしれない。
一度きりの人生は自分らしく‥という言葉もよく聞くけれど、結局のところ本当にそれが正しいのかも誰にもわからない。
中には自分の浅知恵で判断せず、もっと周囲の意見を聞けばよかったと思う人もいるのでは?
きっと人間というのは、自分の中で、こうあるべきとか、こうしたら良いだろうとか仮説を立てて、日々を過ごして、何かがわかったと思ったら、またわからなくなって‥の繰り返しで一生を終えるのかな‥と。
そして、それは別に不幸なことでも哀しいことでもないんじゃないかな〜と、というか、いちいち自分は幸せなのか不幸なのかとか考えたり、ジャッジするのって面倒だしあまり意味がないかも、確認しようとしたってそれ多分確認できないし、その幸せも不幸せも永続性を確約もできないし。
それならいろんな感じ方や思いを、踊ることで表現してそれが、気持ちや身体が解放されて気持ちいい、それも1つだよね。
あれ、それマインドフルネスじゃん‥みたいな…。
ダンスはどうなのよ?
で、肝心のダンスはどうなんですか?という話ですが、そもそもダンスを観ない私にはそれが上手いとか下手とかよくわかりませんでした。
(振付家のアオキさんは流石に抜きん出ていてスゴイと思いましたが‥。)
私にとっては、彼らの踊りは「現代アート」に近いような印象でした。
何を表しているのか、正直よくわからん、でも表したいことが表現者の内側にしっかりとあるのは伝わってくる。
同時代に生きているのだから、この人たちの踊りを見続けることはできる。
きっと表現方法とか表したいこともきっと彼らの中で変わってくる。
だって、彼らは生きているんだから。
時代の変化とその人自身の変化が合わさったものが作品になって、そういう変化を見て、そのとき同時代に生きる自分が何を感じるかかな‥と。
いつも現代アートを見るときはそんなふうに観ていて、この人達の踊りもそういうふうに見ていきたいな‥と思ったのがダンスについては感想です。
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