私のための文章

新聞の書評欄を眺めていた週末。
ある1冊の本について、この本の中であなたは自分ととても似た人を探すことができるでしょう、そしてそれはあなたに1つの道を与えてくれるかもしれない‥というような内容のことが書かれていた。

村上春樹の小説が好きな人たちは、彼の作品を読んで、どうしてこの人は私が感じていることがこんなに正確にわかるのだろう?と思うと言う。
私自身もいくつかの作品については同じようなことを感じたことがある。

そうして、ファン同士でその手の話になると、あの小説は出てくる音楽を知らないと本当のところはわからない‥とか、学生運動をリアルタイムで見ていた世代じゃないとわからないとか、一人っ子じゃないとわからないとか、とにかく自分が一番彼の作品の深く近いところにいるんだ‥というようなことになりがちだ。

村上春樹のエッセイを読むと、どうしてこの人は私が感じていることがこんなに正確にわかるのだろう?というような内容のファンレターは、世界中からくるのだそうだ。
彼ら彼女らは、その作品の中に、これは自分のための文章だと感じるのだろう。それもかなり強いインパクトで。

本の中で、「自分ための文章」を見つけるのは、そう難しいことではないように思う。
折にふれて、そういうものは出てくる。
そういうものを探すために、無意識にでも意識的にでも本を開くことがある。

昨日は、デザインレイアウトの本を読んでいて、「余白は重要、レイアウトにも人生にもね」的な文章を読んで、まったくその通り、どこかで私の今の姿を作者がのぞいてるのでは?と思ったぐらいだが、もちろん、余白が少ない人生を送る人が世の中には多いだけのことだ。

一方で、どういうわけだか、インターネットの世界ではあれだけ膨大なテキストがあっても、私は「自分のための文章」というのに出会ったことがない。
いい記事だな‥と思うものはたくさんあっても、すぐに忘れてしまうし(忘れるというよりも流れるというのがイメージが近いかも)、そのインパクトはとても小さい。

ささいなことでモヤモヤしてしていることが、ネットで同じように書かれていて、例えばそれは自分の子どもと出かけていて、子供が泣き出し周囲の人に迷惑そうな顔をされたとか、そういったことで自分がいたたまれない気持ちになった‥というようなこと。

こういった文章をネットで読むと、同じようなことを感じる人がいるんだな‥私だけじゃないんだな‥となるだけではなく、だから世の中がおかしい、日本の社会が間違っている‥となりがちなのはなぜなのだろう?
共感する人ではなく、賛同する人になってしまう。
「個人的な思い」が「みんなの主張」になってしまうというのかな、

これが小説やエッセイだったら、少しホッとしたり、安心したり、慰められた気分ににったところで終わるような気がする。

ネットだと、そうか自分だけじゃないんだな‥と思うと同時に同じ気持ちの人をいくらでも探せて、マイノリティだと思っていた自分が実はそうじゃなくて、みんなそうなんだ…に変わりやすい気がする。

だからネットはダメで、本が素晴らしいという話がしたいわけじゃなくて、その差はどこから出るのかな?とか、そういう差を感じるのは私だけなのかな?と、週末の書評の文章からつらつら考えたんだ…っていう記録。

オチもまとめもない。

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