逗子日記:二〇二四年七月 桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)

今日から大暑。
週末から海水浴に来たと思われる観光客を見かけることが急に増えた。

洗濯物を干しながら、お隣の研修センターの百日紅が濃いピンクの花をベランダから眺める。
まだ本当に咲き始めだ。
この家に越したときに少し残念だな…と思ったのは、大好きな百日紅の木がない点だったけれど、越して少ししてから隣の研修センターにかなり立派な百日紅があることに気づき、ずっと楽しみにしていた。
周辺のお庭では、芙蓉やムクゲが咲き始めている。
我が家の庭は夏はさっぱりなようで花がなく、一本だけ百合らしきものが蕾をつけている。

コロナ禍でリモートワークを推進していた企業が、また出社を求めるようになってきたという話をあちこちで聞くけれど、最高気温30度超えが予想される日はリモートにするほうが通勤で疲れることもなく、仕事も捗りそう。
外で現場仕事をしなくてはならない人には、仕事の時間を短くすることはもちろん、その日は暑さ手当みたいなものがあってもいいような気がする。
社員みんながホワイトカラーになりたがるのも業種によっては困る企業は多いのではないかと

昨日は食材の買い出しに行ったぐらいでほぼ何もしていないので、朝からあれこれと家事を片付ける。
食事の時間以外は立ちっぱなしで、専業主婦になりたい…という若い女性が未だに多いと聞くけれど、家事って思い切り肉体労働だけれどなぁ…とふと思う。
一つ一つの家事を切り出してみれば、飲食店の調理人やサービス、掃除の仕事、倉庫の在庫管理みたいな仕事でとても若い人から見て魅力的な職種ではないような気がするが…。
見方によっては、上司がおらず、気兼ねする同僚はおらず、ノルマもなく、自分の裁量で働け、その上営業活動をしなくてよいフリーランスみたいに専業主婦は見えるのかな。

このところ、私自身が元々長いことフリーランスをしてきたこともあり、フリーランスの方のコーチングをする機会が多いのだけれど、儲かっていなければ常にお金に頭を悩まし、儲かっている人は働き過ぎに悩んでいる。
後者は組織で働いている人から見えると不思議に見えるようだけれど、一人で働くというのは案外ペース作りが案外難しいのだ。
一人で登山すると、ペースが早すぎて休憩を取らずにバテてしまうのに似ているかも。
一人呑みも家で呑んでいると緊張感がないので、すぐに寝てしまうが、外で一人で呑んでいるとどうもピッチが早くなってしまうのも近いかな。

というようなことをつらつら考えながら、家事をしている。
明日は孫のお世話を昼から夜まで予定しているので、おそらく何もできないだろうと思うし、ひょっとして翌日も疲れて何もできないかもしれないので、できるだけ前倒しで色々と片付けておきたい。

昼食を食べ、積読になっている日経新聞をまとめて読む。
アメリカ大統領選の話にかなり紙面が割かれている印象。
アメリカの大統領選挙は、森本あんりさんの本「反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―」を読んで、且つこの本をベースにした著者の講演聞いてから関心を抱いているので、記事が多いのは有り難い。
ネットで終わった都知事選の話をいつまで読んでいるよりもね(そもそも今や都民でもないわけだし)

今回の都知事選は話題が多く、確かに今後の国政の動きを想像させる選挙ではあったけれど、本来直接影響を受けるのは都民なわけだし、それにしては随分とネットでは長いこと取り上げられている。
メディアへの批判はこれまたネットでしょっちゅう行われているけれど、さすがに紙の新聞はその辺りの加減はちゃんとされていて、紙のほうがバランスはまだマシだな…と感じる。

「国民のレベルが=その国の政治のレベル」とよく聞くが、これは「国民のレベル=その国のメディアのレベル」というのにも置き換えられそうな気も。

夕刊の短期連載に、デザイナーの原研哉さんがブックデザインに関して書いていたものがあり、印象に残ったので手帳に書き付けておく。
電子書籍が主流になるころには、ブックデザインという言葉はなくなってしまうのかもしれないと思うと、寂しくそして今ある書籍たちがとても愛おしく感じる。

”気持ちのいい物質に触れながら仕事のできるうちに、本の時代を生きた人間の誇りと共に、未来の人にはできない仕事を、今、しておこうと思うのである”

原研哉(デザイナー)
2024年7月19日 日経新聞夕刊 「こころの玉手箱 〜装丁で使う「束見本」〜」

夫のZoom会議が終わったので、仕事部屋を交代してもらう。
お互い仕事部屋でもリビングでも仕事ができる状況にしてあるけれど、周囲の音の問題などもあってZoomを使うほうがまず優先的に仕事部屋を使う。
私は仕事部屋では、オンラインの打ち合わせやコーチング以外には、デスクトップPCで片付けたい(ラップトップではいささか面倒な)がっちりした作業や、じっくり何かを考えてる仕事をまとめて片付けることにしている。

仕事部屋に籠もりきってしまいたい‥と思うこともあるが、夫はバラバラのことをしていても同じ空間にいたい…という人なので、そのあたりは夫の希望を優先することにしている。
こういったささやかだけれど相手が大切に思っていることに合わせるというのが、いかに夫婦仲を安定させるか‥というのはさすがに二度も離婚するとわかってくる。
小さい日々のことほどおざなりにすると大きな問題を引き起こす。

図書館から取り寄せた「「怠惰」なんて存在しない 終わりなき生産性競争から抜け出すための幸福論」を読み始める。
今の時流にあった本だから、プロモーション次第で結構売れそうな本かな。

自分もそうだけれど、確かに大半の人が自分は「怠惰」な人間だと感じているので、バリバリと仕事をしている中で仕事のスピードを緩めるのはかなり難しい。
一度止めたら二度と以前のように働けない気がする、何しろ自分は「怠惰な人間」だと思っているから。

私自身は、30代半ばで仕事のご褒美って、次にもっとやりがいのある仕事がやってくるってことなんだよな、まぁ収入もアップするけどさ…でもこれ、キリがないよなと気がついて、この本の著者と同様に働き過ぎで身体も壊し、30半ばでフリーランスになりキャリアダウン、さらに40歳で娘も成人し、42歳で学費も終わったので大幅にキャリアダウンした。
私のように老後の資産らしいものもないなかでそんな事する人は少数派だろう。

キャリアダウンした理由は、身体が弱くて無理が効かない…というのも一つの理由だけれど、そもそも身体が弱いから、老後に時間ができたらあれこれ好きなことをする…という選択肢があまり現実的でなく(そんなときには多分すでにヨレヨレだと思う)、まだ気力と体力がある程度あるうちに一線を退いて、退いてもやっていける程度に細く長く働きたいし、その環境を作りたい‥というのが大きい。

「業績に誇りを持て」とは言うけれど、いくら偉業を達成したところで、満足して休むことは許容されない。この社会では、どれだけ成功しても一息つかせてもらえない。「次は何を?」「他には?」と永遠に要求される。
「頑張れば頑張るほどより善い人間になれる」と「怠惰のウソ」は説くけれど、どこまで頑張ればいいのかの合格ラインは決して示されない。目標地点を永遠に動かし続けて、人の弱さや欲求を許容することはない。どこかの時点で必ず失敗するよう、あらかじめ設計されているのだ。

「「怠惰」なんて存在しない 終わりなき生産性競争から抜け出すための幸福論」 p42
デヴォン・プライス著

夕方の庭の水やりでふと気づいたけれど、なんだか低木の木に咲いている花が百日紅のような気がする。


木の部分が通常の大きくなる百日紅と違ってツルツルした様子がないので気づかなかった。
多分この記事に書いてある「矮性サルスベリ」というものではないかな‥と思う。
枝が込み合っているので、風を通すために花の時期が終わったら、少し剪定してみよう。
なんだかそのあたりにハチがいるなぁ…、花の時期でもないのに‥と思っていたが、見えにくいところに咲いていたのをちゃんとハチ達は知っているわけだ。

昨年同時期

逗子日記:二〇二三年七月 桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)

読み返してみると、この時期にまだ仕事の話などを書いているということは、卒業制作はダラダラやっていたんだろうなぁ‥と思う。このあと、秋に入るとほぼ卒業制作一色になっていたのだと思う。
この時期からコツコツと手を動かしていれば…と思うが、こういう性格は一生治らないだろうなとしみじみ思うので、あまり自分を責め立てる気にすらもはやならない。

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