日経新聞の朝刊で見かけた 展覧会「The Power of Colors」。そこには徳田八十吉の釉薬で色彩を調整した鮮やかな美しい作品が掲載されていた。その色鮮やかさにギュッと何かをつかまれた感じがあった。
虎ノ門に美術館?
よくよく読んでみると、そこは菊池寛実記念 智美術館というところらしい。ホテル・オークラのそばに陶芸の美術館があったのか…。
仕事の調整はつきそうなので、早速その日の午前中に行ってみることにする。
虎の門は私が初めて社会人になった時に通った場所。相変わらずそっけない大きなビルが立ち並び、愛想のない街だなと思う。それでもよくお使いにいった文房具屋さんの場所などを見かけると、とても懐かしく感じる。何しろ25年前ぐらいの話だ。
あの頃の私はとにかく、毎日どうやって娘の保育園のお迎えの時間に間に合うように仕事を終わらせるかしか考えていなかった。
仕事が早く終わると、上司は「定時まで仕事をしたとタイムシートをつけて、帰っていいよ」とよく言ってくれた。「早く、娘さんを迎えにいってあげなよ」…と。古きよき時代の話。今はそんな派遣先はきっとないだろう。
地下鉄の出口の通路の狭さ、朝のラッシュアワー時に、「これじゃ間に合わないかも…」と何度も不安に思ったことを今もリアルに思い出すことができる。
虎ノ門の駅からしばらく歩くとビル群の間にひっそりと閑静な場所があらわれた。
門を抜けて右手には西洋館と呼ばれる大正時代に建てられた建物がある。特定の日にだけ公開されるらしく、この日は残念ながらしまっていた。
正面に美術館の建物があるのだが、レストランの看板が大きくて、ここはレストランだけなのかと思いこみ、少しうろうろしてしまった。
建物の中に入ると篠田桃江の作品が飾られており(著書がだいぶ売れたので、お名前は耳にしたことがあるが彼女の作品を観たのはこれが初めて)、小さなミュージアムショップの一角に受付があり、ガラス作家の横山尚人氏のとても美しい階段を降りるとそこが美術館だ。
この階段だけでも観る価値あり…。
常設展示のガラス内にある作品にまず目を奪われる。このガラスがとても薄いのか、それとも単にそう見える特殊なガラスなのか、非常に近くに作品を感じることができる。三輪休雪の「王と王妃のカップ」、徳田八十吉の「耀彩花器(希望)」が展示されていて、どちらも強い迫力があり、一際目を引く。
前半は、絵付けのされていない作品が並ぶ。
引き寄せられたのは、五代 伊藤赤水の「無明異壺」。その壺自身が何か熱を発しているように見える、陶土自身がまだ熱を発しているかのようだ。そこからものすごい温かみが伝わってくる。ああ、手を触れてみたい、と感じた。
川瀬忍の青磁花入も青磁大皿は曲線が美しく、青磁独特の清潔感と静けさを持ち、そこだけ何か青白い光を発しているようにも見える。
青磁はいつも私の気持を強く引き付ける。
後半は、絵付けされた陶器が並ぶ。照明と背後にある布が、作品をさらに美しく見せるためによく配慮されていることに気がつく。
美術館全体が作品を引き立たせるためにとてもよく気を配られている。
先日の北大路魯山人の展覧会(三井記念美術館)でも感じたが、美術品に虫を描くというのは、日本独特のような気がする。
南仏に出張に行った時に、色々なものにモチーフとして蝉が使われていたが、それは単なる連続する柄のような形で、何かの空気をひっそり表すかのように虫が一匹描かれいるようなものは見たことがないのではないかと思う。
(一緒に出張した蝉嫌いの同僚の引きつった笑顔が今もよく記憶に残っている。テーブルクロスから、カーテンから、食器までとにかくあちこちに蝉が絵描がかれていて、そしてそこに黄色を中心とした独特の色鮮やかさがある)
絵付けされた陶器もいずれも美しい作品が多いのだが、その色の多さからどうにもうるさく感じる。
どうやら私は、どの作品を自宅に置いておきたいか‥と視点で観ているようだ。美術品を眺めていて、手元に置きたいと思うことはほとんどなかったのだが、Rucie Rieの没後20年の展覧会(多分、千葉美術館)に訪れた折に、ああ、自宅にこんな陶器があったら眺めるたびに気持が温かくなり、ほっとするだろうな…と感じた。
それ以来、美術品を手元に置きたいかどうか、という視点が私の中に追加されたようだ。そして手元に置きたいものに色があれこれ使われているのはどうも苦手なのだ。
ここ最近、西洋美術を見るとそのパワーにものすごく圧倒され、疲れるようになってきた。単純に西洋美術についての展覧会のほうが、人気がある非常に混雑するので、そのせいだと思っていた。
今回の智美術館でわかったのは、西洋美術がもつ華やかさと賑やかさが今の私には重たく感じるのだ。
彼らの樹の絵などもそうだが、同じ樹というモチーフであっても、どうも日本画とそこには違う何かがある。そこには違うタイプの静けさがある。決定的に違うのは西洋の静けさには「凛」としたものがそこには含まれていないのだ。
今の自分にとって、手元に置き毎日眺めていたいのは凛とした静けさのある「何か」なのだと思う。
華やかな色絵の陶器を鑑賞したあらわれたのが、深見陶治の「蒼き狼」という作品だ。私には剣のように見える。
欧米の古戦場に、墓石のように剣が突き立てられている絵やイラストを何度か見た記憶があるが、それらを彷彿させられた。
もし自分のお墓を作ってもらうならこういうのがいいな。亡くなった日や戒名とか、家の名前とか何も書いていなくていい。ただの標みたいなものがいい。なくなった土地を表すのに建っている印みたいなもの。
陶器は通常の墓石よりきっと壊れやすいだろう。でも、壊れて失くなるのがまたいいと思う。
家族のであっても自分のであってもお墓にまったく興味のない私がそんなことを考えた。興味がないのは、お墓に故人が眠っているとはどうしても感じられないからだ。
故人が眠っている場所ではなくて、故人が生きていたことがわかる標で私はいい。そして、故人を知る人がいなくなる頃には、その標もなくなっているといい。
小さなミュージアムショップで、図録を手に入れる。残念ながら今回の展覧会の図録は作っていないようで、この美術館がオープンしたときのものだそうだが、とても丁寧に作られていたものだった。
館内の職員の方はびっくりするほど年配の方が多い。
それがまたこの美術館ととてもよく合っているのだと思う。都内に一つぐらいそういう場所があってもいいと思う。
静かで派手さがなく、落ち着いた小さな美術館。きっとまた訪れるだろう。
コメント