「日本語はなぜ美しいのか」という本が非常に面白かった。
新書には、時々こうした「当たり」の本があるので、目が離せない。
母音を主体にする言語は、世界的にみても日本語とポリネシア語だけであるそうだ。この非常にユニークな言葉である日本語の発音体感について、わかりやすく興味深く解説されている本である。
そんなに言い切ってしまって良いのかしら?と思う部分もあるのだが、その切れ味のよさがテンポの良さとなり、ぐいぐいと読んでいってしまう。
この本の中で著者が述べている、日本語は日本語の風土とともに使われているが、これは当たり前のことでないということ、英語などはあちこちの国を通って、生まれてきた言葉であり、人種によっては言語を戦いによって奪われてきた人たちもいるという視点にハッとした。これは脳にとって、幸せなことなのだそうだ。
本の中で、著者が繰り返し述べているのが、早期英語教育の危険性である。
なにせ、胎児期から十二歳までに、ヒトは母語の獲得とともに、完成の根幹を作り上げている。十二歳までの子どもの脳は、意外に忙しいのである。外国語教育を押しつけられたら、脳はやるべき仕事の一部を放棄するしかないのだ。
私も子供の早期英語教育にあまり賛成ではない。日本語の発達がまだまだこれからという子供達にどうして英語を教える必要があるのかが、理解できない。
自宅の近所には、全ての教育を英語で行っている幼稚園があり、お散歩中の子供達を見かけると、先生が英語で色々と話しかけている。しかし、幼少期、たくさんの言葉を獲得する時期に、英語のシャワーを浴びさせる意味が本当にあるだろうのか?と思わずにはいられない。
私自身、アメリカ系外資企業の仕事を通算7年ほどやっていて、日々英語には苦労しているが、それでも、小さな頃から英語の勉強をすればよかったと思ったことはない。むしろ英語の面でも、日本語の本をたくさん読んできたことが、思考を助け、すごく役に立っているように感じている。
とは言え、英語はどこかでやらなくてはならないだろう。それについては、著者も同意見である。
英語は、シンプルな構文で、冠詞の種類も最小限であり、発音の身体性を見事に体現したアルファベットを採用し、特殊文字もほとんどない。アメリカにわたってからは、様々な人種の人々が発音しやすいように、子音を軽やかに流す、リズム重視の発音体型になった。
英語は、外国人が与しやすい言語といえるだろう。おそらく、英語にとって代わる国際語は、今後も登場しないはずである。
だから、道具としての英語はやはりおとなの教養の一つであると認めざるをえない。しかし、道具は道具。ネイティブのひとたちのように流暢に自然に、ということに、母語の言語モデルを壊してまでこだわるなんて、私はナンセンスだと思う。
この本でもっとも面白いのは、「言葉と身体性」の部分である。どのぐらい根拠のあるものなのか、この手の本を読むのは初めてなので、よくわからないのだが、なるほど、あ、何となくそれわかる。実感する・・・というのがたくさんある。
このあたりは、7章の「ことばの美しさとは何か」、そして8章「ことばと意識」を読んで、ぜひ体感してみて欲しい。
「うちには娘が三人いて、ミカ、ミキ、ミクという名前なんだ」と言われたら、なんとなく、ミカは仕切りやの長女、ミキは個性的な次女、ミクは内気な末娘のような気がしませんか。この「なんとなく」は、語尾の違いだけで生まれているのである。
逆に、心が開くと、自然に母音のことばが増えてくる。デートの最後に、「楽しかった」と言われたのなら、合格すれすれ、「嬉しかった」と言われたら大成功である。「イヤ」と言われたらもう一押ししてもいいけど、「ムリ」と言われたら引き下がったほうがいい。
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