いわさきちひろ、絵描きです

チケットをいただいたので、いわさきちひろの生誕100年となる展覧会「いわさきちひろ、絵描きです」を観てきた。

黒柳徹子の書いた自伝的小説「窓際のトットちゃん」を読んだのは、おそらく小学校高学年のとき。
本の挿絵の描いたのは、いわさきちひろ、おそらくそのとき初めてこの人の絵を知ったのだと思う。

小学生のわたしにとって、黒柳徹子といえば「ザ・ベストテン」の司会者でやたらによくしゃべる玉ねぎ頭のおばさん‥というイメージで、どうしても「トットちゃん」というその女の子とは結びつかなかった。
そのせいか、わたしのなかの「トットちゃん」はいわさきちひろの描いた表紙の女の子になってしまう。

正直なところ、子どもの頃のわたしはいわさきちひろの絵が好きになれなかった。
曖昧なぼやけた甘ったるい印象、何よりこの人の描く子どもの絵は、大人が子どもに望む、理想の「あどけなさ」や「くったくのなさ」を描いているようで、子どものわたしにとっては、押し付けがましく感じたのかもしれない。
「あどけなさ」と「くったくのなさ」というのは、わたしの中に欠片も見られないものだった。
そしてそのことに親を含めた周囲の大人がとてもガッカリしていることもうっすらと気がついていた。
だからといって、どうすることもできなかった。そのたびに居心地の悪い思いをするだけだった。
そういうことも影響しているかもしない。

娘を産んだら、いわさきちひろの見方が一変した。
娘のもつ柔らかくて白いほっぺたも、まあるい膝小僧も、ぷくぷくとした腕もすべていわさきちひろの描く絵のなかの子どもたちがもっていた。
「いわさきちひろの絵って、めちゃくちゃリアルじゃん!」と思うようになったのだから、その変わりようときたら、恥ずかしいぐらいである。

子どもと二人で暮らしていたころは、決してお金のある暮らしではなかったが、自分自身も絵本に関しては良いものを与えられていたので、妥協できず。今、思うと結構散財していたと思う。
いわさきちひろの絵本は、たくさん家にあり娘とよく読んだ。
どうしても手放せないもの以外は、友人の子どもたちに差し上げたので、手元にはもうほとんど残っていない。

展覧会では、靴を脱いで絵本を眺めることができるスペースがあって、なつかしい絵本に手を触れることもできたし、大好きだった絵本の原画もたくさん飾られていた。

展覧会の会場を入ってすぐのスペースには、彼女が愛用したものたちが展示されていた。ごくごくシンプルな「いわさきちひろ」と書かれた名刺は、住所と電話番号だけ書かれていて、肩書もなにもない。ミニマルというと冷たい印象になりがちだけれど、ひらがなで書かれた名前とその文字間のスペーシングがなんともいえない柔らかい感じだった。

どこの展覧会でもそうだが、とにかく入口付近というのは一番混んでいる。「よし、観よう」とみんな張り切るのか、説明のパネルなどもものすごく熱心に読む人が多い、後半になるにしたがって、大体は好きなものだけじっくり観るようになってくるのだろう、だから入り口に比べると混み具合はひどくなくなってくる。

そもそも平日にしか美術館を訪れないわたしには、びっくりするぐらい人がいるように感じて、前半の愛用品とか、彼女が影響を受けた作品などの展示は、すーっと眺めて飛ばした。そのなかで唯一ゆっくり眺めたのは、マリー・ローランサンの「ブリジット・スールデルの肖像」という作品だ。
それまで、まったく気づかなかったけれど、マリー・ローランサンのやさしい感じと色彩は彼女の作品と非常に近い。
影響を受けた作品として解説されていて、初めて気がついたが、どうしてこれまで気づかなかったのだろう?とあとから考えるとすこし不思議なぐらいだ

購入した図録によると以下のような、いわさきちひろ自身の言葉が出ていた

「少女雑誌の口絵かなんかで、はじめてローランサンの絵をみたときは、本当におどろいた。どうしてこの人は私の好きな色ばかりでこんなにやさしい絵を描くのだろうかと」

「最後のつたの葉」と題された、O・ヘンリーの「最後の一葉」の幻燈、絵の雰囲気は、色使いもビビットなところが多いせいか、その後の作品とだいぶ違うのだけれど、よく見ると背景のにじむ感じの色使いや線の感じは、なるほど確かに‥と思わせるものがあった。

この展覧会のタイトルにあるように、わざわざ「絵描き」とうたっているのは、童画家のイメージが強いからなのだろう。
前半はそういったイメージを払拭するような作品の展示が多かった。
強い印象を受けたのは、伊勢丹とヒゲタ醤油の広告だ。
こういう仕事もやっていた人だと初めて知った。
この広告の絵は確かにいわさきちひろの絵で、作品的にも童画に近いのだが、きちんと広告として伝えたいメッセージが伝わってきて、さらに垢抜けてもいる。
やさしい絵のイメージからなんとなく不器用そうな人に見えるのだが、クライアントの要求をきちんとのみこんで作品に仕上げる仕事のできるイラストレーターのような側面もあったのかもしれない。

「ぽちのきたうみ」のぽち。
「もしもしおでんわ」のおひさま。
そういった大好きな原画に会うたびに表情が自然とゆるむ。
この人の描く犬がまた好きなのだ‥というのを思い出した。
「ぽちのきたうみ」の絵本は未だに手放せずにいる。
娘はもう27歳だというのに‥。

ぽちのきたうみ (至光社国際版絵本)

もしもしおでんわ (松谷みよ子 あかちゃんの本)

今回、一番印象に残ったのは、これまで見たことのない「母の絵を描く子ども」という作品だ。
飾られている位置から考えても、これまで見たことがないことを考えても決して代表作というわけではないのだろうと思うが、わたしはずいぶんとこの絵の前に長いこといたのではないかと思う。
お母さんの一番大切な仕事は、子どもをゆっくりと待つことだと思う。なかなかできない‥どころか、ほとんどできてない‥けれど、それでもそういうのを諦めちゃいけないよな‥そんなことをずっと考えていた。

はじめての東京ステーションギャラリーは、展示会場そのものは決して広くないが、移動のための階段などは古い建物がそのまま生かされており、美しいものだった。

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そういえば、どうして子どもを産んだあとに、いわさきちひろの絵本を手に取るようになったのだろう?、きっかけは何だったのだろう?と考えながら図録をめくっていて、その答えがわかった。
私は当時、産まれたばかりの娘に関する悩みを相談できる人が周囲におらず、松田道雄先生の本だけを片っ端から読んで、頼りにしていた(1990年代前半はインターネットが普及していなかった)
図録を読んでいて、そういえば松田先生の本にこの人の挿絵がよく出ていたことを思い出した。
多分、それがきっかけだった。

子育てが人間を成長させるかどうかは、私にはよくわからない。
でも、松田道雄先生を知ったり、いわさきちひろの絵に感動したりするようになったのは、おそらく子育てがなければ私には起こらなかったと思う。そういう意味では、子育ては自分の枠を広げてくれたのは確かだと思う。

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