世の中は、仕事のできる人とできない人がいて、できる人と言うのは、どこに行っても大丈夫で、反対にできない人というのはいつまで経っても駄目である。
・・・・と若い頃は、単純に信じていた。(そして、勿論私はその中で自分を仕事ができる側に分類していた。あー、恥ずかしい話だね)
・・・・が、さすがに17年も社会に出ていると、物事はそう単純ではない・・・と言う事がおぼろげながら理解してきた。
仕事ができるとか、有能であるというのは、言い換えると(そのときの)時流に合っているということだけのような気がする。
単純な例で言えば、数年前まで職場の飲み会やら社員旅行やらなんて言うのは、随分と古臭いやり方で、若い人は誰もついてこない・・・等と言われ、飲みニケーションなんて言う上司は、仕事の実力が無いが、単に家に帰りたくないか・・・・等と言われたもしたが、今はまたそういう(一種の)家庭主義的なものが実は大事なのではないかと言われている。
バンバン仕事を整理して、四半期の数字につながらない(若しくはつながりの分かり難い)ものは、じゃんじゃん切っていくというのが有能な人のように言われる時期もあれば、いやいや、長期スパンでの人材育成です・・・というのが真に仕事ができる人であるという風潮の時期もある。
じゃぁ、両方の良いところで、バランスの取れた人が素晴らしいなんて言うと、実態としては、その人は単純に傍観者だったりすることもある。(どっちの立場も取れないので、動かない)
最近はいわゆる有能な人、周囲に認められている人を見かけると、あー、今はこういう人が時流なんだな・・・と、思う半面で、周囲の人にあまり評価されていない人を見ると、あー、この人はちょっと時流がずれているんだな・・・と思うようになった。
その人が有能かどうかなんていうのは、長いスパンが無ければわからない。
一部を切り取って、評価してもそれはその時だけの断面なんだなと近頃よく感じる。
時流にちょっと合ってないな~と思ったときに、慌てて付け焼刃で時流に合わせているとだんだん本当の自分が磨り減っていくような気がする。
「なるほど、今ちょっと自分は時流に合ってないな、でも、自分はこれが大事だと思うからこれを大事にしよう・・・」と、じっくり腰を据えても良いんじゃないかなぁと思うのだ。
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