日本のデザイン

久しぶりに原研哉氏のデザインの本である。
今回は岩波新書からの出版ということもあり、デザインと言う言葉から少し縁が遠いなと思われている人にも読みやすい内容にまとめられている。

副題に「美意識が作る未来」とある通り日本の古来からある美意識を今あらためてこの本で意識させられ、その上でこの持っている美意識をどう未来に行くかということが語られていく。
この未来を描く想像するスキルというのがすごい、デザインとは今あるものを改良するだけれではなく、世界を拡大することができるものであり、そこに日本の技術力が加わることで美意識+技術力として、まだまだ日本は世界をリードする可能性があることを力強く指し示している。

著者の文章はそのまま未来の質感を手触りとして想起させてくれる。
その奥行きのある文章に毎回私は魅せられてしまい、ふとしたきっかけで彼の本を手にしてから数年、今では熱心な読者になってしまっている。

原研哉氏の本を読み終わると自分の中の眠っていた「美意識」が揺り動かされる。
そしてふと、街中に出て、自分の机周りを見て、すべてものにはデザインがあるのだということに気がつく。
周囲全体が浮き出すように見えてくるのだ。この人の本を読むと。

  • 幸いなことに、日本には天然資源がない。そしてこの国を繁栄させてきた資源は別のところにある。それは繊細、丁寧、緻密、簡潔にものや環境をしつらえる知恵であり感性である。天然資源は今日、その流動性が保障されている世界においては買うことができる。オーストラリアのアルミニウムも、ロシアの石油も、お金を払えば買えるのだ。しかし文化の根底で育まれてきた観光資源はお金で買うことができない。求められても輸出できない価値なのである。
  • デザインとはスタイリングではない。ものの形を生み出すだけの思想ではなく、ものを介して暮らしや環境の本質を考える生活の思想でもある。したがって、作ると同様に気付くということのなかにもデザインの本質がある。
  • 白木のカウンターに敷かれた一枚の白い紙や、漆の盆の上にことりと置かれた青磁の鉢、塗り椀の蓋を開けた瞬間に香りたつ出し汁のにおいに、ああこの国に生まれてよかったと思う刹那がある。そんな高踏な緊張など日々の暮らしに持ち込みたくはないと言われるかもしれない。緊張ではなくゆるみや開放感こそ、心地よさに繋がるのだという考え方も当然あるだろう。家は休息の場でもあるのだ。しかし、だらしなさへの無制限の許容がリラクゼーションにつながるという考えは、ある種の堕落をはらんではいまいか。ものを用いる時に、そこに滞在する美を発揮させられる空間や背景がわずかにあるだけで、暮らしの用いる喜びは必ず生まれてくる。そこに人は充足を実感してきたはずである。
  • ものを捨てるのはその一歩である「もったいない」をより前向きに発展させる意味で「捨てる」のである。どうでもいい家財道具を世界一たくさん所有している国の人から脱皮して、簡潔さを背景にものの素敵さを日常空間の中で開花させることのできる繊細な感受性をたずさえた国の人に立ち返らなくてはならない。
  • 月見台から月を眺めた往時の日本人。僕らは今、その月見台を撮影した写真を通してその美に思いを通わせる。美意識は針の穴からも蘇生していくのである。

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