2022年の読書概況
このブログを書いている時点で、まだ12月31日となっていないのですが、現時点で2022年は284冊の本を漫画、雑誌含め読了しました(再読含まず)
昨年2021年の記事を読むと、274冊となっていますので、今年は10冊多かったようです。
昨年の記事の中に以下のようなことを書いています。
2022年は、紙の書籍/電子書籍のどちらで読んだか、自分の手元にある本なのか図書館の本だったのか‥というのも記録しようかと思っています。それから再読本も別カウントで記録しておこうかと思います。
これまでも再読本のカウントは検討したことがあったのですが、最初から最後まで読むというよりも、思い出して読みたくなった部分だけを読むというのが多く、カウントが難しいと思い、放置していました。
このところ、頭から再読すると、最初の印象から随分と本の印象が変わるな‥という体験が多いので、2022年は再読を積極的に取り入れたいと思っています。
紙の書籍/電子書籍のどちらで読んだか、自分の手元にある本なのか図書館の本だったのかというのは記録しました。
再読はやってみると、やはり最初から最後まで通して読むことが少なく、2022年11月上旬まで記録しており、そこから記録せず、その時点では45冊再読本を読了していました。
ちなみに今年の読了284冊というのは、2020年も同じ読了数になっているので、250〜300未満というのが近年の私の平均ペースなのかなと思います。(何度も言いますが、漫画も入っていますので…)
電子書籍 vs 紙の書籍
電子書籍で読んだ本は、全部で210冊。
そのうちKindle Unlimited で読んだ本が52冊、買って読んだ本が158冊。
(2022年は、夫が1ヶ月以上入院していた時期にKindleUnlimitedで軽い本をかなりたくさん読みました。現時点では退会しています)
紙の書籍は、全部で74冊。
そのうち図書館で借りたもので読了したものが63冊。購入した本で読了したものが11冊。
図書館の2週間という期限内に読み終えることが難しく、さらに電子だと私の場合は理解力が落ちるため、読み応えのある本はどうしても紙になります。
そうなると「自分で買った紙の本」=「ハードル高く、難攻不落な本が多く時間が掛かる」というのもあって、積ん読または読み中というステータスのものが多いです。
それにしても、11冊しか読めていないとは、少なくとも50冊ぐらい買っている気がするのですが…。
2022年のベスト5
5位 〆太よ
私が著者である原田宗典さんの作品を熱心に読んでいた頃は、電子書籍はまだない時代だったので、Amazonのオススメにも出てこないため、2018年にこの作品が出ていたことも知らず、図書館で発見して慌てました。
今どきの若い人たちには、原田マハさんのお兄さんと言ったほうがわかりやすいかもしれません…。
20代の頃から、この人の書く、弱くて情けなくて、繊細過ぎるしょうもない主人公の男性たちが登場する物語を繰り返し読んできました。
今回「〆太よ」を読みながら、この人は本当にすごいわ‥と改めて認識。ぐいぐい引き込まれ、この作者は感受性が尖すぎるというか繊細過ぎるから、書けない時期もあったのだろうと感じました。この人の作品を読むと、いつも人間って「弱い」のか「強い」のかよくわからん‥と感じます。とても人間臭いんです。この人の作品。懐かしく感じるような地味な世界と小さな救いがそこにはあります。
薬物問題などもあり、長いこと作品が出ていなかった原田宗典さんですが、この作品を読んで、復活!という文字が浮かびました。
初期の繊細さにしっかりしたストーリの骨格、魅力的な登場人物とが組み合わされて、本当に魅力的。
ヤク中の主人公・東洋一、盲目で複雑な家庭に育った〆太、スケールがやけに大きい遊び人の西田さん、主人公の初恋の人でもあり性交を芸術にまで高める金田香織がなす物語には、なんとオウム真理教の話まで入り混じって、一気に読ませます。
目の見えない〆太の部屋の蛍光灯を主人公が替えるシーンがとても好き。
あんたらは首から上だけできれいごとを言って他人ばかりか自分自身をも騙している。あいつがやってるんだから自分もそうしなきゃ出遅れるとばかりに裏へ回って抜道を探して山ほど嘘をつく何とかして予め優位に立とうと画策する。どんなに卑怯な手を使っても結果さえ伴えばあれは賢いやり方だった要領の良い選択だったと言葉をすり替えて自分を納得させる。 そんな様子を目の当たりにして育った子供たちがいざ喧嘩するときに五分五分の条件にこだわると思うか?自分は傷つかない手段で要領よく喧嘩しようとするのは当然だよそのやり方が卑怯ではなく賢い選択だとお手本を見せたのはあんたらだろ。子供を叱る前にあんたら胸に手を当てて自分を叱れよ口先じゃなくて肚で自分の哲学を示せよ誰憚ることなく「これでいいのだ」と言ってくれ。
4位 News Diet
この本については、すでに下記にレビューを書いていますので、そちらを。
本を読んで実際にモノの見方や行動が変わらない、自分の中に変化がないというのは、骨肉化できていないというとことで、(本当の意味では)その本を読んだということにならないのかもしれません。
そういう意味ではこの「News Diet」は具体的に自分の中にかなり変化をおこした本でした。
「News Diet」読んで新聞を読むことを止めていましたが、下記に書いた映画を見て、あまりに社会に起きている大事なことを無視するというのは大人としての責任としてどうなのだろう?と思い、現在はまた新聞購読を再開しています。
とはいえ、「News Diet」の言う通り、知ったからと言って私に何ができるのか?ほとんど何もできないということを感じるのではありますが、それを含めてそういった世界に自分は生きているんだなと知っておくことも大切かもと思い、しばらく購読は続きそうです。
3位 働くことの哲学
著者の父の時代から、「働く」ということが随分変わってきたという話から始まる本。
一般的に捉えられている哲学の本のイメージよりも、著者も述べている通り、「労働」についてのスナップショット集のような感じ。
昔の労働、今の労働、これから労働はどこに向かうのか‥みたいな。中身は深くて考えさせられる部分が多々あるけれど、小難しくて読みにくい本ではない。
私がもう少しこの本の全体像を把握するには、もう一度読む必要がありそうなので、再読決定。
この本以降、どうも現代は「自分」と「仕事」があまりに結びつきが強すぎるのではないか?すべての根底が「仕事」とそれにまつわる「お金(「稼ぎ」という言葉のほうがしっくりくるかも)」になってきたのはいつ頃からなのだろうと疑問に思い、読む本の傾向がちょっと変わってきている気がします。
父にとって仕事と余暇は厳格に分離された社会的領域であった。自分の仕事が「有意義な」ものかとか、それが自身の「真の自己」の表現となっているかなどといったたぐいの問が、父の念頭に浮かぶことはまずないようだった。
2位 何もしない
Kindleのオススメに出てきて、サンプルを読んだら最近の自分の興味関心にあっているようで、読んでみた本。
Amazonのレビューにそれなりの高評価がついていますが、読み通すにはそれなりに時間がある人でないと厳しい気も、私と同じような興味関心がある人や同じぐらいある程度時間のある人がそれなりにいるってことなのでしょう。
アテンション・エコノミー(注意経済)に巻き込まれず、生産性というものに抵抗して自身の生活を守ることが重要なのは理解できるが、具体的にわかりやすい解決策もない本で、この本を読むこと自体が生産性が低いと言われてしまいそう。
でも、私にとっては奇妙に惹きつけられる本で、折に触れて再読することになりそうです。
ある意味3位であげた「働くことの哲学」からの興味関心を引きずってきて読む流れになった本でもあります。
「労働者が経済的安定から離脱すると、区分が解消される。「労働に八時間、休息に八時間、そして、残りの八時間はわれわれがしたいことをするための時間」という区分がなくなるのだ。その結果、私たちはすべて換金可能な二十四時間とともに取り残されるのだが、その時間が自分のタイムゾーンや睡眠のサイクルに合っているとは限らない。 目覚めている時間のすべてが生計を立てるための時間と同一になる状況において、自分の余暇さえもフェイスブックやインスタグラムの「いいね!」の数で評価するために差し出し、その成果を株価をチェックするかのごとくつねに気にして、自分の個人ブランドが成長するようすを監視する暮らしを続けるうちに、なんでもないことに時間を費やすのは正当化できなくなり、時間はすべて経済資源となる。何もしないでいると投資にたいするリターンは望めない。そんな態度はもはや高価すぎて手が出ない。これが時間と空間の残酷な合流点だ。非商業的空間が失われていくのと同じように、自分の時間と行動がすべて商業的なものになりうると私たちは気づいている。」
—『何もしない』ジェニー オデル著
1位 目の見えない白鳥さんとアートを見にいく
目の見えない人(白鳥さん)が美術館で鑑賞?いったいどうやって?という興味から読んだ本です。そもそも美術とは?美術館とは?という話から、障害者を取り巻くものと自身との関係など、色んなことを考えさせられました。
リモートワークになると、雰囲気で通じるというのがなくなり、「言語化」の重要性、ひいてはそのためのボキャブラリーの自身の足りなさなど痛感することが多かったのもこの本が非常に印象に残った理由かもしれません。
目の前にある美術作品を白鳥さんに伝えるには、まずそのモノをよく見る必要があり、自分はそもそもそれができていなかったことも気づけましたし、それを伝える言葉を探すのがどれほど難しいのかというのも、ひしひしと実感しました。
この本を読んでから展覧会に行くと、ものすごく疲れます。モノをよく見て言語化して架空の白鳥さんに伝えようとするのが癖になったからだと思います。でも、おかげでよくモノを見るようになり、「好き・嫌い」ではないアート鑑賞ができるようになってきました。
見えないひとと見えるひとが一緒になって作品を見ることのゴールは、作品イメージをシンクロナイズさせることではない。生きた言葉を足がかりにしながら、見えるもの、見えないもの、わかること、わからないこと、そのすべてをひっくるめて「対話」という旅路を共有することだ。
感想や解釈が同じではないからといって、相手が間違っているわけではない。むしろ違いがあるからこそ発見があり、自分の海域が豊かになる。
「え、知らない?ほんと?」
腑に落ちなかった。ホッパーはアメリカを代表する画家で、アート好きじゃなくとも知っているポピュラーな画家のひとりだ。年に何十回も美術館に通い、「好きなアーティストはフェリックス・ゴンザレス=トレス」と言う白鳥さんが知らないはずがない。「”ホッパー”って言われてもピンとこないかもしれないけど、あの、夜のカフェの絵はどこかで見たことあるんじゃない?通りにカフェからの灯りが漏れていて、中には何人かの男女がいるのが見えて、タイトルは確か《ナイトホークス》だったかな」
そう自分で言ったあとに、はたと気がついた。
そうか、目が見えないって、そういうことなのかな―。目が見える人々は、普段から広告やテレビで多くの視覚情報にさらされていて、見たくなくてもいろんなものが自然に目に入ってくる。最近の電車では、脱毛とか借金とかロボット掃除機とかの広告がやたらと迫ってきて、勝手に脳内に焼き付いてしまう。白鳥さんはそれとは逆で、美術作品のすべてをきちんと美術館で見ている。つまり展覧会で見ていない作品を、偶然「目にする」ということもなく、それゆえに、「よく知らないけどどこかで見覚えがあるぞ」ということはない。
あまり気に入ってしまい、読書会でも取り上げました。この読書会もまたとても楽しい会でした。
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